観心寺は、文武天皇の大宝元年(701年)、役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていた。
その後、平安時代の初め大同三年(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815年)
衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称される。
弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より
造営工事に着手された。
以後、当時は国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。
南北朝時代に活躍した武将。観心寺中院が菩提寺で8歳から15歳まで滝覚坊に仏教や学問を学び、河内長野市加賀田の大江時親に兵法を学んだといわれています。後醍醐天皇 の鎌倉幕府の討伐(とうばつ)に加わり、赤坂城、千早城で奮戦して後醍醐天皇の勝利に貢献しました。後醍醐天皇の建武(けんむ)政権では記録所寄人(きろくじょよりうど)、 河内、和泉両国の守護などをつとめました。建武政権の崩壊後は足利尊氏と争いますが、摂津の湊川(みなとがわ)の戦いで破れ戦死し、首級は京でさらされた後、菩提寺の観心寺に埋葬されました。
楠木正成とその一族の、私利私欲よりも民や国を優先した生き方は、江戸時代に流行した太平記や日本外史に描かれて民衆に人気が広まりました。江戸時代後期には日本で最も尊敬される人物となり、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛などに影響を与え、明治維新の原動力となりました。明治期には各地で神社が建てられ、皇居外苑には銅像が建てられています。
後醍醐天皇は当寺を厚く信任され、建武新政後(1334年頃)、
その後、当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十余坊あった塔頭も現在わずか二坊になっているが、境内は
史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している。
彩色の六臂(手が六本)像。像高109.4センチメートル。如意宝珠を持つので如意輪観音という。平安時代の密教美術の最高の仏像といわれており、秘仏(国宝第五号)。
金堂は大阪府下で本堂として最古の国宝建造物であり、七間四方、単層入母屋造、和様、禅宗様、大仏様の折衷様式の代表的な遺構である。 室町時代初期に建立され、豊臣秀頼の時、江戸時代の中期、明治の初め、昭和の初め等たびたび修理し、昭和五十九年に昭和大修理の落慶をみた。 本尊は如意輪観音で脇侍は不動明王、愛染明王、内陣に板製の両界曼茶羅がある。
建掛塔
鎮守堂(訶梨帝母天堂)
本坊書院
恩賜講堂
金銅観音菩薩 二体
金銅釈迦如来
金銅如意輪観音菩薩
木彫不動明王
木彫愛染明王 二体
木彫地蔵菩薩
木彫十一面観音菩薩
木彫聖観音菩薩 六体
木彫釈迦如来
木彫薬師如来
木彫弥勒菩薩
木彫宝生如来
木彫如意輪観音菩薩
木彫四天王 四体
厨子入聖僧像
大随求菩薩画像
中尊寺経
金銅蓮華花瓶 一対
鉄灯籠
藍韋威肩赤腹巻
観心寺縁起二巻
観心寺文書
楠木家文書 他
他に大阪府指定文化財等、多数保存